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ホーム活動報告

可児市「人権教育推進委員会」が開催された!

最近の新年の初の行事は、各小中学校の人権教育推進委員会から始まります。
可児市では、各校から選考の人権担当の教諭がいて、一年を通して人権実践の活動をして、
その報告会を行っています。
 本日は、そのグループに分かれてブレーンストーミングにより実践報告をして書作成の糧を得るための会合であったようです。
 本センターから、事務局長への講話依頼があり、前座に講話をさせていただきました。
テーマは、「多様性を育む人権の考え」につき、最近思索したことをまとめ上げ、本来の人としてのあるべき姿を互いの生き合いの縁の中に見出すことの大切さを記していています。
本ページの<続きを読む>をクイックしておよみください。
 また本センターでは、いくつかの学校事業を実施していて、人権担当の教諭には、日頃からご支援ご協力をいただいていることから、ほぼ一年間の報告を担当者から報告させていただき、全てに亘り尻あがりの成果は、各校の人権担当教諭等のお力添えと感謝しての報告とさせていただきました。(m・h)

人権への一考<多様性を育む人権の考え>

平成26年1月9日
可児市人権啓発センター 著作:川手靖猛 

  新しい年が始まりました。本年は、国連での「子どもの権利条約」(1989年11月20日)採択から25周年の佳節です。
  中国の古典の「大学」に「洵(まこと)に新たにせば 日々新た、又日々新たならん」とあります。  
  「世の中の森羅万象が移り変わるように、すべての人生も仕事も同じ繰り返しのようであるが、時の移ろいで、人の考えも環境も刻々と変わっていて、二度として同じ事には遭うことは無く、いつも新しいことと出会っている人生だから、そのことをよく知り、心新たにして物事を捉える事が大切である」と言っているのです。
 子どもへの教育も同じでありましょう。学校教育においても、同じような状況場面など一度もないはずです。授業対応は、その時々に応じた、そのことへの価値判断を要して、臨機応変の進めが必要としているはずです。そうでないと勝手な授業であり、子どもとの遊離した授業となってしまいます。
 教科の教えをするにしても、子どもの能力が皆同じレベルでないし、生まれも違うし、個々の性格も違っている子どもらを相手であるからから、必ずしも同一に同時には進められないジレンマがでるのは当然でありましょう。
 こうした難しい仕事であるが、それ以上の高揚感が持てるのは、未来の子供の成長を思いながら忍耐強く30人近い、一人ひとりに目をむけて同時進行して、やがて自分の手元から卒業していく姿を愛(いと)おしむ、ことができる高貴さのある職業であるゆえに、まさに聖業(職)と言われるゆえんでありましょう。
 子どもの立場から考えるとどうでしょう、自分にとり、教育課程9年間は人生の半分の時間を学校の授業に費やして、見知らぬ先生のクラスに入れられ、次から次へと教材を教え込まれると感じる子もいるかもしれません。でも大半の子供は、そういうものだとの社会ルールの中で、自然に会得した感慨の中、努力している方が多いのではないでしょうか。
 教論の努力の上に立ち、学校が存立しているのは、教育の義務と言う社会の規範がそうしていることが大きいのです。ゆえに日頃のこどもが「早く行ってみたいな学校へ」となることは、何か自分への報奨か楽しい見学等がある時以外は、難しいことです。
 教諭も人の子であります。自らの意思でめざした教諭の世界とのギャップも当然有ろうかと思います。どこの世界も理想のように成らないもの。その根源は、先に述べたように、あらゆる全てが変化しながら自分の前にあり、また自分も変化しているのだから、一致点は難しいからです。
 また教諭も生活を持っていることを、世間では不思議と認めてくれていなし、そのことを分かってくれる人は少ないものです。ゆえに相手の都合で問うてくるのです。そのことで教諭との垣根が無いと言われれば良く聞こえることであるが、それだけでは解決できない物理的な時間等の闘いが出てきます。こうしたことの理解は、学校の内外においても気を配る必要があります。
  だから少しでも本来での授業の専念できるよう特に重荷すぎる点の転業化で「いじめ防止専門委員会」と「条例」を先駆(がけ)の提案させていただいたのであります。
  ここである教諭の奥さんの投稿記事を紹介します。
「夫は、教師ですが、今やセブンイレブンと言われるほど。朝早くから夜遅くまで仕事をしています。帰宅しても学級通信やテストの採点、週末は、部活の顧問があり、ゆっくり休むことができません。生徒を叱れば親から抗議が、生徒が家出をすれば遅くまで捜しまわることもあります。我が家の二人の子どもは、平日は父親と食事をすることも、入浴することもできません。でも、父親が頑張って仕事をしていることを理解しているので、父親の前ではがっかりせず、週末になると夕飯が食べられると喜んでいます。主人は言います。「大変なことは多いし、外野からのこえもある。けれども自分が相手にしているのは目の前の子どもと、その子の未来だから、信念は曲げたくないのだ」
 一生懸命な教師は、たくさんいます。そこをマスコミは伝えて欲しい。私と家族はこれからも主人に誇りをもって支えていきます」(静岡県菊川市・匿名)とあり感銘しました。
 この家庭のように、ゆるやかで和(なご)みのあるようになるには、奥さんの持つ考えが、おそらく、人間の社会のありようと人の心の動きをみて、そこにある事実を理解して、対応しているのでポジティブに考えられるのだと思いました。
 それは、世界広しといえども夫婦となることの確率は、河原の石の数から選ぶ位大変なことこのよう何思えます。こうした関係が自分達夫婦の縁(えにし)が、感謝となり、さらなる愛情となって深まっているのだと思う。この原理は、すべてに通じていくのだと思われます。
 この人とそれを取り巻く環境の多様性の中に問い詰めてきた人権の侵害を防ぐ最たるものがふくまれているように思われます。
 多様性の根底には選択すると言う縁(えにし)への理解の呑み込みが大切であります。
 そのことは、この縁(えにし)と世の中での多様性の関係は、人を大切にすると言う点、人権を理解する上での大きなファクター(要因)であると考えますので、この点をもう少し詳しく話します。
 多くの文化を希求する国であるニュージランドでは、人は、一人ひとりが違うことが当たり前と言う暮らしが人々の中に根付いていると言う。自分と違う人の意見も良く聞き、そして受け入れる社会形成があると言う。また個人の生活は、文化であるとの意識が浸透しているとのこと。
  そこには、人は互いに支え合い融和して生きることの大切さの条件をそなえているのです。
 では、具体的に人間は、どのように社会の中に実在しているかを、演繹的に見てみましよう。
それは、前述した通り
 「人の世の中は、多様性の中で生きていて、何一つ同じことはないということがあるのです」
 具体的に述べれば、動物は、約100万種いると言われるので、人間に生まれ出ることすら大変なことである。当たり前なことではないのです。
また来世も人間に生まれたいもの、といえども分からないことです。
 また、今この世に共に生きるけれども、永い人類の歴史上ほんの一瞬でしかない稀(まれ)での出来事であるから、互いに人間同士として仲良くしなければならないとも言えます。
 しかも世界の国約200カ国有る中で日本に生まれたことも稀であり縁である。その日本の中での岐阜県であり、可児市であり、・・・地区であるから、ここで生活する縁は、一層深いのである。
 何もここで生まれなくてもいいのに、また住まなくてもいいのに住んでしまったのだから奇(く)しき縁(えにし)があるのである。自らのクラスでの子どもとの関係も同じなのです。
ゆえに支え合いを必要としているのです。
 世界は、約72億人の人口であるから世帯3人とすれば、世界約24億世帯の中の可児市の3万3000所帯なのであるから、約7万分の1が可児市に住んで世界を形成しているのである。
 またこの諸外国とて、国情も異なるもの戦争や飢餓で苦しんでいる国もある。これも多様である。故に、人として生きていることと、そこで生きることとは、偶然ではないのである。意味があってのことだと思う。だから自分達に換わり苦しむ他国も大事にしたいものである。
 次に、人の内外的にはどうかである。そこに住む人はどうか。白人・黒人・黄色・赤色・茶色人種等こうした多様な人種もいる。
 顔かたちは、どうか。これも全世界人口約72億の人の全ての顔形は違い、世界で一人しかいない。これも考えれば不思議である。只一人の自分であるからだ。だから生きる存在価値があるものであるから、命を大事にしなければならないのである。
では、個人の考えはいかがか。これも似通った人はいるにしても、全く同じではないのである。よって、行動もまちまちである。1日中でも同じ考えで同じ行動をしている人はいないのである。
 生活も家族といえども、全く同じではないのである。瞬時の心の思いは、その人の感情から発するもので、瞬時から違っているのである。だから意を合わせることには、苦労するのである。
また、自分の行動であっても、今を過ぎての行動は、分からないもの、今日と明日は、また違うものである。だから寛容さが大切となるのである。
 子どもが言うことをきかないのは、自由心が旺盛であり、いか様にしてそれを内包するかが、教諭の努めとなるでありましょう。方法もこれしかないように評論する人がいるが、その場限りであり
その子どもの命の状況に合わせた方法が何かを考えなければ満足できない。
これには多くの経験がおそらく必要であり、本人の人格的な要素によることから共に共育と言われるゆえんであろう。
 集約すれば、これが多様性であり、その中に人は、生きていて、むしろ多くの事柄が存在して、いるから生きていけるともいえる。すべて皆同じである世界には、興味もわかないし、自己主張できなく、人は生きられないのであろう。
 変化の中で、生きていくことが、人にあっているから人間は、言語知的感情動物として、他のものより与えられた使命が高度にして発達したのだから長く種の保存ができてきたのであろう。
 全宇宙で、約250万年の中生きてきた人間の命なのである。だから他の生物環境を含めた生物多様性を守り維持する役目が存在するのである。今まで述べた人間と多様性からなぜ人権的要素を守らなければならないかのアウトラインを述べたが、人権侵害は、なお起こるのである。
 では、本論での、人権の侵害は、なぜ起こるかである。
 この人の心の中の問題である。「人は、安穏に住みたい心。言い争いの無い互恵でありたい。この平らかな心が人間の心持ちであり、これが本質的な心である」といわれます。
 こうしたことの本来、多様性を好むべき命があるのに、その多様性を差異と捉え「差異へのこだわり」により、自分のフレーム(同胞・家族・党派・地域・国・民族等)の身の安穏・利益追求のための争いにより、多様を認めない命の繰り返しが残念ながら人類史である。これは、安穏を保持するために自分また自分達を守ろうとする命が、自己本能的に手っ取り早く出てしまうためであるといわれます。動物的な傾向の命と言えよう。
 有名な平和学者のエリース・ボールディング博士は、「平和を築くうえで何よりも大切なのは、差異を認め、讃(たた)えていける寛容の心です。人間皆それぞれに特別であり、しかも、かけがえのない存在としるべきである」といっている。寛容とは、互いの差異を認め合い、多様性を尊重し合うことである。かけがえのないとは、取って替われない尊敬の念である。このことが先の教諭の奥さんの心持にあったに違いない。
自分の中にある、開かれた心を出して、他人と話し合い学び合う寛容の精神の中に共生的な平らかな人の持つ良き心が湧きあがって来るように思う。
 異なる個人から、社会へ向かっての視点を拡げ、異なる社会の中でどうやって生きていくのかを考えていく一人ひとりでありたいもの。
 成熟社会では、差別する人と差別される人の対立軸は、なり難くなりつつあると言われる。
 なぜならば、いじめに遭う人も、いじめられる人に、すぐなり易いと言うことである。
 このことも今まで述べてきた人の存在いわゆる、なぜ人は生きてきたのかの理解が足りないためであろう。
 では根本治癒はなにかである。これは、人間の命の作用であると認め合うことで、その命を出し難くするしかないように思う。そのためには、フレームも良き集団として、他のフレームと良きフレーム同士となるよう寛容で行くことしかないのである。
 個人においても、その争う命を出さないように良き事を良き集団・良き友との対話交流で深めて、争う命を覆いかぶして、出難くすることしか手はないように思う。
 「憎しみの心から良い結果は出ない」(マンゼラ元南アフリカ大統領)と言う。
 「人から発することであるから、人により解決できないことはない」(松下幸之助)と思い込んで挑戦することである」と言われます。
  最後に、多様化により価値観がいか様に変わろうとも社会に有益をもたらし人間にプラスをもたらすものは何かを学校の教室で子どもたちとの中での学習の基準になればと思い次のことを記しておきます。
  北京大学の季副学長が言う。子どもに対する善し悪しを決める基準は、そのことが子どもに<①前進をはげますことができるか ②楽観精神をあたえられるか ③知恵を涌かすか ④倫理(人権)・道徳レベルを高められるか⑤力を与えられるか⑥困難に立ち挑戦せしめるか⑦高尚(よりよい)の美感を与えられるか>であるといわれます。
 人権侵害は、多様さの故に起こるものであるから、こうした先達の経験に即したことを自家薬籠中にして、学校での多様の中であっても、自分とは何か、自分はいかにして生きるべきか、どういう中で生きているのか等を考え、立ち位置をわきまえて生きることで、寛容さが養われ、人をも認め尊敬できていけるものだと思う。
 <明るい子・思いやりある子・粘り強い子>こそ「人権教育」での育みの証しである。

僭越一考講話。