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保科正之の心(ならぬものはならぬ)を学ぶ!

 先日の17日に保科正之ゆかりの地である長野県伊那市の「高遠町歴史博物館」を視察しました。元館長の郷土研究家の北原氏のご講話を1時間10分程いただいた。要約を記す。

1、保科正之(幼少:幸松):

①徳川時代第2代将軍秀忠の落胤(らくいん=隠し子・母=お静)徳川家康の孫。後の第三代家光の異母弟として生まれ、見性院(武田信玄の2女)と妹の信松院(信玄の5女)に預け養育され7歳の時、秀忠の内諾の上、元武田側であり当時徳川側であった信州高遠藩保科正光家(高遠城)2・5万石大名の養子に出され母お静と共に暮らした。
清廉実直な藩主正光の教えや有能な藩士の教育を受け、21歳の時、正光死後、正之を名乗り3万石の高遠藩主になる。

②その頃に徳川家光が、鷹狩の時古びた寺の住職が、将軍と知らずに「高遠藩主の母が良く参詣してくれますが、将軍様の実弟であられるのに領地も少なく寄進もままならないようです、身分の高い方は情の薄いものなのでしょうか」と愚痴をこぼしたといわれ、この時初めて家光は、腹違いの弟のいることを知ったのです。住職は、将軍と後で知り顔面蒼白になったといわれていますが、この寺に家光は、のちに土地を与えたといわれます。

③その後家光は、江戸城登城の際も控えめな実直な正之を機会あるごとに目をかけていき、18年間共に暮らした母お静が52歳で亡くなると正之は、25歳の時、一気に20万石に加増され出羽の国(山形)最上藩主となり、そして32歳の時会津藩主(23万石+5万石)となり、その後正之の子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。
40歳の時に第3代家光が死去する時「宗家(徳川家)を頼み置く」と言われた故「会津家訓15箇条」を定め「会津は将軍家を守護すべき存在であり、これからの藩主が裏切るようなことあれば家臣は従ってはならい」以後幕末の藩主・松平容保まで、この遺訓を守り、最後まで幕府を信じ守り通し薩長軍に敗れていった。「ならぬものは、ならぬものです」を守り通したのである。

2、研修目的:

★常に思いやりを基として民を慈しみ、民政第一を旨として、宗家(徳川家)守護を第1として、驚くべき多くの人権的な策を民に施した。

この精神の源淵は何かを知りたいと考えた。

今の日本の精神的な疲弊感あふれる時に倫理観の醸成は、人権啓発にとり特に重要なこととである。教育界での子どもの育みの中、道徳の教科化もされようとしている事を鑑み意思表示のありよう、「ならぬみのはならぬ」ことを学ぶことに、ふさわしい人物こそ保科正之の生き方精神であると考えた。

政治家・官僚・大企業財界・教育界等により、今の「国家の品格」を問われている時こそこぞって学ぶ必要があろう人物である。

3、なぜ保科正之は人徳(人情)――ヒューマニティに育てられたか。

①養父藩主・正光の精神による:見性院(武田信玄の次女江戸城にいた)に対する保科正光の慈しみの精神、(元武田家家臣ということの恩を忘れずに罪滅ぼしに心掛け、必ず江戸に来たときは、見性院を訪ねたといわれる)

②正光の叔父が正之の守り役であったが、領内を連れまわし民情を学ばせた。

  • のどが渇いたとき、庭先には絶対馬を乗り入れないこと。庭先の作物を食べるようでは、農民がやる気をなくし、藩の収入も減少すると教えたという。
  • 又自分で井戸のつるべを手繰って水は飲むこと。絶対農民を顎で使ってはならない。
    農民を大切にして、気持ちが分からなければいけないと教えた。
  • 城下には、杏子や柿・くるみなどの実の成る木を多く植え飢饉に備えた。(のちの米沢の藩主上杉鷹山も実践)

③「足るをしらねばならない」将軍の血筋といえども多くの人に助けられて自分があるのだから、決して自分は偉いと思ってはいけないと、深く決意をした。領民に善政を施し、やがて譜代の保科家の当主として将軍家に謙虚にして真の忠誠に励むことだとの覚悟なる精神が育っていったといわれる。(江戸城の大名の集まりの席でも末席に座り、「ある時将軍家光が末席にいることを見て、人ごとに保科の上座にだれが座れるのかのうーーー。」とまわりに聞こえよがしに言うと他大名が、このことを知り、廊下に出て座ったとの逸話もあるーーーその時「私は所領も小さく若輩者で、皆様に教えを乞う身です。上座には座れませんと固辞したといいます」)

4、命の大切さを藩・大名に解き実践した施策

  • 殉死の禁止
  • 人質の禁止
  • 産後の間引きの禁止
  • 養子の緩和(お家断絶防止)
  • 大名承認制度廃止(江戸屋敷に正室等人質廃止)

5、民を大切のした施策

  • 藩や幕府米の備蓄(飢饉・防災対策)
  • 高齢者米支給制度(養老年金制度) 
  • 玉川上水の開削(人口増を見越した水の供給と田畑への供給)
  • 社倉制度(年貢米とは別に買い上げて飢饉や火事で焼け出された人にあげる制度
  • 旅人の病気等は、藩費で賄う制度の制定(無料保険制度)

6、江戸城の天守閣はなぜないのか

1657年の江戸の大火で江戸城の天守閣が消失したが、天守閣不要(時代錯誤)とした。全て江戸の町の10万人焼死者に与え、また江戸の町づくりに16万両(会津藩の1年分に相当)「官庫の蓄えと申す者は、全てかような折に下々へ施し、士民を安堵させるためにこそある」と言い天守閣は、これ以後、江戸城にはないのである。主要道路を6間(10・9m)から9間(18・2メートル)に広げ、芝・浅草・新堀の開削・神田川の拡張と211年後の東京まで同じ姿であった。

7、会津藩の掟・「会津藩家訓(かきん)15条」

 第3代将軍家光の死に際に「宗家(徳川家)を頼み置く」といわれ正之は、異母弟として、如何になろうとも、会津藩は、徳川家を守り抜くことを決意して、家訓をつくり1643年の初代正之藩主以来幕末の第9代松平容保(かたもり)の1868年まで225年間守り、幕末には、朝廷や幕府までにも裏切られ結末は悲惨であったが、この家訓を藩主は守り通したことになるのである。今もって、会津は、忠誠を大切にするといわれる。会津の矜持(プライド)なのである。

15条の家訓には、第1条は、前述の徳川家を何があっても守り抜くことが書かれている。

その他には、
一、法を犯すもの許すべからず。
一、主を重んじ、法をおそるべし。
一、賄賂(わいろ)を行い、媚(こび)を求めてはならない。
一、えこひいきをしてはならない。
一、兄を敬い、弟を愛すべし
等15箇条書き綴っている。

8、「ならぬことはならぬものです」(什の掟こと)

会津第5藩主(松平容宏頌)――(第3代から保科家から松平家を名のる)が1803年に藩校「日新館」を創立した。(あの白虎隊の学び舎である)

 6歳から9歳までの藩士の子を十人位のグループをつくり、その内の年長者の一人が座長となり、毎日座長の家に集まり、昨日から今日にかけて7つの掟に背いたかを反省会を行って事実であれば制裁を決め、罰ゲーム?をさせたようです。

一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ
一、虚言(うそ)を言うことはなりませぬ
一、弱いものをいじめてはなりませぬ
一、戸外でものをたべてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交わしてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

9、現代版「あいづっこ宣言」のこと

現在にマッチングしないこともありますが、会津の学校では、最近「あいづっこ宣言」

6条をつくり唱和しているそうです。

一、人をいたわります
一、ありがとう、ごめんなさいを言います
一、がまんをします
一、卑怯(ひきょう)なふるまいをしません
一、会津を誇(ほこ)り、年上を敬(うやま)います
一、夢に向かってがんばります

やってはならぬ。 やらねばならぬ。
ならぬことはならぬものです。(ダメなものはダメなのです)

最後に、常に控えめで実直な正之は、誰からもねたまれることなく、その生き様は「知足の人」といわれ、いかなる境遇にも不満を持たず(自らはすべて足りている)と悟って、自らを押さえて他人(民を第1)に思いやる施策に力を尽くしたのである。伊那市観光協会編