2017年6月29日「ならぬことは ならぬものです」今こそ品格を!
★あのNHKの大河ドラマ「八重の桜」で、描かれた江戸時代の会津藩の学校で藩士の子らに、人の行いや物事が理にかなっていないことには、凛として対していくことを教えた総意の言葉が「ならぬことは、ならぬものです」である。
日本の伝統的な気質である、潔(いさぎよ)さの育みが、ここにあった。
今日本に必要なことは、こうした気骨さのある精神であろう。
特に模範となるべき、為政者や各界の指導者が、不条理なことを平気でやってしまっている。
★「みっともないことだけはするな」と良く小さい時に親父から言われた。あの時代には、食うものもなく貧乏人が多くても、社会は今のようなことはなく、指導者には、尊敬さを持って敬愛されていた。いつかあのような先生に成りたいものだと憧れていた。
★今では、その教育のトップの為政者が、子どもの買春の所に出入りしていたことを平気で皆の前で公言していても周りは、その事には目をふれないで通り過ぎている。
思い上がりは、自らの矜持を下げ、行先すら駄目にするものだ。
子どもの教育や人権を本気でやっている多くの人のことを考えると空しさが湧き出る。
教育こそ何に増して尊い、未来ある子どもたちの幸せをつくるものであり、日本の将来を担うものへの規範となるものであるからだ。
★教育界は本来独立して、軋轢のない中で進める大事業である筈で、「4権分立論」の一翼とすべきと「ずーと」思ってきたが、もう駄目だなと思っている。大変なことが教育中央で起こっていることが、分かっていない。
一番情けないと思っている人は、現場で多くの軋轢の中頑張っている教師の方々であろう。哀れさが漂う。
★生きて行く上で遭遇する多くの艱難辛苦に涙を流し、汗をかきながら乗り越えてきている庶民の心が、全く分かっていない情けないこと。
★「後ろ指を差されることは、するな」とも言われて育った。あの指導者の家では何を教えてきたのだろうか。今どう思っているのかを知りたいような気がする。
責任論は、やめれば済むことではない。それをよしとしたら、教育界は、塗炭の苦しみとなり混乱が起り、子ども達が、「あの人がやっていることをなぜやってはいけないのだ」と言ことが、まかり通り道理が通らなくなるからだ。
★また昨今の学校トップ等や教師の不祥事続きもこのことが、元凶だったことで分る気がする。「100匹目の猿」の原理で長の悪念が伝播していたのである。
★来春から「道徳の授業」が行われるが、これらを決めてリードした人が、このよう「ていたらく」であっては、どう教えていくつもりなのか。徐々に蝕んだ朽木のように、がっくりと折れ倒れることを心配するのだ。
★人には、欲望もあるし、過ちもある素直に頭をさげ、自分が先きに犯したことを謝罪して、立ち去る潔(いさぎよ)さが大事だ。
自分の非を蓑隠れのようにして、けむにまき他人のことに、正義ぶって粋(いき)がっては、いけない。
正義とは、対人間での倫理的規律を内在する気骨ある人の振る舞いだからである。
自分が、どんな立ち位置で仕事をして、息抜きが使命に耐え抜くことをしてきたかを考えなくてはいけない。
★子ども等を育む最も高貴ある立場の人では無かったのか。人間としてみっともない恥ずかしい事なのだ。品格無く、育まれてきたと言われてしまうからだ。
★人間は、鉄等の元素物質をつくる力はない。つくり得るものは物質の負荷価値のみである。
人に価値を付けるとは、人間性の豊かな心を高めようとすることである。
こうした人からにじみ出る味こそが品格であり、このことを高めようとするのが、教育の目的である筈だからだ。
ゆえに、これに値しない指導者は、教育者に値しない人となる。
★品格とは、節操さ、見識の高さ、態度の立派さ、姿の美しさであり、「すぐれた人間性」に他ならないのである。
今からでもごめんなさいと言い、犯罪者となるかを問うてもらうことだ。(y・k)