2009年10月25日家庭での「子どもの人権教育」を思う
この間、市内の保育園の保護者から「子どもの人権について」とのテーマをいただき、話をさせていただいた。今年は、国連での「子どもの人権条約」採択20周年であり、これを知ってのことかと、嬉しく思った。 今、子育て真最中の方々である。
「人権は、人の心と言動に内在する」ことであるから、家庭の子育ての大変さへの励ましにと、次のような主旨の話をさせてもらった。
「子どもの人権条約」の、条約54ヶ条ほとんどは、「子どもが守ることでなく、大人・保護者が守ること」また「書かれている条項が、機能するように援助すること」を目指しているのです。 (中略)
ともかく、条約がどうであれ、わが子を慈しむ心は、親として誰にもあること、特に母親の特徴でもあります。でも、次から次に難題が起こる子育ての中で、ひとつひとつすべてが、よい形にいくはずはないのです。また、これから大きくなる子どもの育てで、取り返しのつかなくなるということは、ほとんど起こらないことから自信をもってやってください。
子どもの、思いと行動は、年々広がっていくのですから、その分、親の悩みも大きくなるのは当たり前です。その悩みを解決すれば互いに喜びも大きくなり自分も成長できることになるのです。
次にもう少し、親と子どもの関係を考えてみましょう。自分の子どもの責任は、親として一生あるわけですが、だからといって自分の「所有物」ではないのです。何をしても良いということにはならいのです。
ここに「生まれながらにして持つ」といわれる、個としての人権の意義があります。
これは、お母さんが、「十月十日」位おなかの中で懸命に守りながら、大変な思いをして生んだ子どもであっても、一旦、この世に生を受けたからには、お母さんとは違う思い、言葉を語り、行動する生命体の存在が確としてあるのです。
だからといって、かしこまり育てることは、かえって愛情が偏ってしまいます。 自分なりに、安心して、おおらかに、健やかな育てが大事になります。
子どもには、子どもの個性があります。毎日違う生き方を模索しています。「桜には桜の美しさがあり、梅には梅のかおりがあり、桃には桃の彩り(いろどり)があり、李(すもも)には李の味わいがある」からです。すべてうまくいく普遍的な育てなどは無く「その子には、その子の育ち」があります。だから理想を追うことは、必要ないのです。育児の本をいくら読んでも、また「あの家庭、あの子」とも違うのです。
同じに真似をしても、それぞれ環境の変化が違うのですから、うまくいかないのが当たり前なのです。それに悩んで「私はだめね」と落ち込んでは、まさに、本末転倒です。
「良からんは不思議、悪からんを一定と思え」と思うことが丁度よいのだと思います。
子どもは、自ら大きく育つもの、危ない時に補ってあげることで良いのです。
子育ては、このように肩肘を張らずに、自分なりに行動して、余り遠くを見すぎないことです。
理想を追わず、演繹的でなく帰納的に足もとにあることを一つ一つ解決し、「やってよかった」と思うようにしてください。
皆さんは、日頃やることが多すぎると思うからです。
そこで考えてほしいことがあります。
子育ての大事な原点は何かです。それは、「この、ことをすることが、この子にとり幸せかどうか」を考えてほしいのです。
この幸せのことは、メーテルリンクの「青い鳥」の本にもでてきます。
幸せとは、この子が「人として、自分に負けない人生をすごすことができるかどうかです」 押し付けでなく、諭(教諭)し、そして励ましながら、やってください。
この「幸せ」ということを、これからの自分の人生にも、問いかけながら、子育ての原点とし、子どもと自分の生きる共通の基盤として考えてほしいのです。
後ろ姿は、親だけでなく、懸命に純粋に生きる子どもの後ろ姿からも、一人の人間として学んでいってください。人権は、尊重しあうものの中に出来上がるのです。
そして、幸せに生きることが、人としての努めであり、権利なのです。だから人権の定義を「人間が、人間らしく幸せに生きていくための権利」というのです。
人権教育での、家庭、学校、地域(社会)での目標は、すべて、このことなのです。(y・k)