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教育は「社会のためのもの」か?

 エジブト初めアラブ等の国の崩壊が起こっている。この根底に何があるのか。
その国の国民の思いと生活をどのように育んできたを問われ、
政治への在り方への不信が不満となり爆発しているのだ。
国に国力を付けると言いながら権力を集中させ、
国民を顧みなかったことである。
国は、国民あっての成り立つもの、国民の生きることへの
安心安穏が何よりなのだ。
であれば、国力がなくてもあのブータン国のように
自助・共助・公助が自然と融合しバランスよくなり、人生幸せに暮らせるのである。
今日本がこのようになったらということでない。
「事の本質が何かであることが抜けてしまうと全てのやる
ことなすことのベクトル(方向と力)が分散して効果を発揮できなくなる」ということだ。
最近、目的を履き違えることが多い気がする。

<極限的な意志の強さを持ち物事に当たること。物事の進め方が帰納的し
過ぎないようにすること。本来のありようが何なのかを演繹的に考えことが大切である。
「何のために」との原点を飛ばして、今の事の対処に追われて究極さを追求せずに
終結したようにものをなすことでは成功しない>と「ビジョナリ―カンパニー2飛躍の法則」
の著者ジェームス・Cコリンズは言う。

「物事を為す上で、いわゆる本末転倒になるな」ということなのだ。
難しいことを言う気はさらさらないが、気になるので言ってみたい。
教育は社会を良くするためにやっていると思い教育をしている人がいたならばーー。
そうではない「教育は、社会を良くするためが第一義ではない。掛替えのない子どもを
人として開花させようとする行為である。また社会は、人を良くするための育む場としてある」のだ。
この事を知るべきである。

言いかえれば、「教育の目的は、日本を良くするためにあるのではない」
この4月から、小学校の学習指導要領が変わり「ゆとり教育」がなくなり、
教科時間と教科が追加されるという。
これが、いいとか悪いとかではない。
問題は、このことにより、より子どもたちが、いい形となり、楽しく学ぶことが
できるかである。結果的に幸せになるかである。
日本の学力が下がると国力が陳腐化するからだと、
一部政治家が言っているからである。
教育は、子どもが幸せに人生を送っていくためのもので、
人として「人間が人間らしく生きて行けるため」の力をはぐくむためのものである。
このことが乗じた上で、総じて日本が良くなるのである。
人が良くならなくて国が良くはならないことは、すぐわかることだ。
今こそ人権教育の何たるかを知り実践すべき時である。
理屈のようだが、子どものありようを第一として、取り組むことと、
成績が上げるために取り組むこととは本質が大きく異なるのである。
どこの学校が1番だの2番だのと競争することとなるであろう。
学校が先になり子どもは兵士となり、競争の中で勝ったものが優遇されるよう
になることが心配なのだ。
人は、理科系が良いから頭がよいのではない。
頭が良くてもTPOがわからない人の世は幸せにならないのである。
相手を思う心のない世は生きた心地のない最悪の様相となり、
国も地域も・学校も、いつか崩壊するのである。
「子どもは、自分の使命・必要性の肯定感を感じながら成長できるのである」
こうした人としての公平公正の融和的な対話が先生と子ども、親と子どもとの間に
存在してこそ人は育まれて成長するのだと思う。
国・地域・学校と言う組織体がものを為すのでなく。
そこにいる人としての先生・親がものを為すのである。
だから国・地域・学校を主眼とせずに国民(子どもたち)を良くしてあげることが第一である。
これが「何のために」の目的に当たるのだ。
これが人権教育なのだ。そうして偉大な国となるのである。

何がもとなのかを意識しての育みが必要である。
それが逆ならば、本末転倒となるのからである。

「人間を育むことは、個(人)の確立のためにあり、個(人)を確立して初めて社会としての国があり、
地域があり、学校があり家庭がある」からである。(y・K)