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戦争という人権侵害について

8月6日と9日は、広島・長崎に原爆投下され66年となる。
「不戦の誓い」を強くしながら核戦争と言う愚かなことに、
持続して警鐘を鳴らすことは、何にまして重要なことである。

戦争は、人間の「生存の権利」を脅かすからである。
なかでも弱者である女性と子どもの多くが犠牲となるからである。
一度に多くの人を殺傷する核兵器こそ「悪魔の産物」である。
核の使用は、絶対悪である。
原爆を使用する人間としての心を封印しなければならない。
戦争ほどの人権侵害はないからである。
戦争とて核とて人が指図して実行しているからである。
このことで地道な人権侵害防止の良心的活動は、直ちに粉砕してしまうことが悲しいのである。

大国は、表面では、他国を人権云々と言うが、人一倍戦争での人殺の事実を非人権であるとは言わない。
争いを防ぐには、「普段から無垢で友好な対話的取り組みで、連帯の構築をしてきているか」にかかっている。
 このことは、何事のおいても同じである。

事の後での言い訳は、詭弁であり創られていくのである。 
戦争を終わらせるために原爆を落としたと言うが、それなら、何故さらに長崎に落としたのか。
恐ろしさの検証は既になされていたのだからーー。
結局は、かかわりあった為政者の心の憎悪であったのだ。 
餓鬼(貪り等の心)・畜生(動物的な弱肉強食の心)・修羅(悪いことは相手の責任とする心)の心が
争いを起すのである。
戦争も、日常の人との争いもこうした人の持つ悪意により起こるのである。

中国の故事(太甲中)に「天のなせる災いは避くべし・自ら(人の)なせる災いは逃れ難し」とある。
どちらにしても命の尊さは同じであるが、天災よりも、人による災の方が避けることが難しいということなのである。(福島の原発のことでもわかる)

「愚かな指導者の下での民衆ほど哀れなものはない」のである。
こうした争う悪に断固負けない強い心の連帯をつくることである。(y・k)