2012年7月18日心からの祈り<碑の除幕と灯篭流し>
異常気象がこれでもかと言わんばかりに続く。
日本列島が荒れ狂っている。何がどうなっているのか。
本当に人間の所為が因ではないのか、仕方ないのかが分からない。
だが、ベクトル(方向と力)から言うと人のやることが悪すぎるのと比例して
起こってはいないかと案じている。
物の起こりは、見えない関係でつながっていることが多いからだ。
為政者は、このことを肝に銘じなければならない。
全ての起こることは、自らの一念の証しであることを。
国民の苦悩を安穏にすることは、為政者の責務である。死者を出してはいけない。
人の命は、何があろうとも救うことが努めである。
ことを疎かにすることにより、ややもすると人権侵害の帰来となるからだ。
岐阜県の本市(可児市)では、先日7月15日(日)に、あの平成22年の7月の
可児川豪雨災害から2年となる。このようなことを2度と起こさないための祈りの催しがあった。
1名の方が無くなり2名の方が未だ行方不明だ。
また久々利川でも平成11年流されて亡くなられた女性もいた。
こうした方たちへの鎮魂の碑が「自然と人との共生の碑」として、犠牲者への
鎮魂の祈りと共に自然への多大の恩恵を祈り感じながらも、時としての脅威
が起こす自然。
「常に市民との安寧の関係であるようにと願い碑の建設を決意した」と言う。
碑をつくること、灯篭流しを企画することの心こそ、その人の高きこころである。
対身の思いの発露であると思う。
大事なことは、こうした史実は、為政者の一念が通じ、今後起こさない因を形成して
いくことは間違いない。
あらゆるものを超えた心のおきどころでの制作判断であったことを喜ぶ。
この日の夜の灯篭流しには、大勢の市民が犠牲者の魂に安らかなる祈りをささげていた。
こうした相手の心を案じる人が多くなることが人権的な心の拡がりであり、
結果として心豊かな地・可児となるのである。祈る合掌。(y・k)