2013年1月30日学校は、社会の中にあるなり!(教師の暴力・思考)
学校の教師による暴力が問題になっている。これを聞いて驚いた。
昔々のことだが、日雇労務者の現場棟梁が暴力管理しての事件を思い起こした。
これと同じことが学校で起こるとは一体、教育現場は、どうしてしまったのだろうかと思った。
学校では、何をやってもいいわけがない。
学校も社会であり治外法権などないのである。
子どもは、教えられながら育つのであり、暴力で傷めつけられれば、
その子も同じことをやってもいいことになるのである。
また生涯そのことが心の傷となるであろう。未来責任は、ないのであろうか。
他市のことでは、済まされないことである。
一昨年来「いじめ防止」で論じてきたことが、あらんことに学校内部の教師から出たのでびっくりしたのである。
このことは、聖業・聖域での教師自身が、子どものいじめの原因の一因であったなどとは考えも
及ばなかったことである。
いじめの論点を変えなければならない。
子どものいじめは、意外と先生の姿を見て、伝播波及したのではないかと。
「いじめは犯罪である」と子どもに言っておきながら、分別できる大人が、
犯罪を教えていたのだから論外である。
瞬時の感情での行為は、解決としては手っとり早いが相手の心には行為のみ
が残るからである。
「心の痛みのわからない教師のもとの子どもほど哀れなことはない」
こうしたことは、生徒の親もすぐに行くべき所に申し立てすべきであり、
先ずは追放すべきことである。
一般家庭での暴力は、法律でDV法が施行されているのである。
法治国家のありようが、何か特別に学校に及ばないと教師が思っていたら大変な
ことであるからだ。
教育権の独立の4権分立論者(司法・立法・行政に教育)の筆者であったが、
より行政的な関与がここまでくれば当然の帰着だと思われてしまうことは、
教育界の上に立つ人達の努力のなさであり残念である。
「学校は何のためにあるか」を教師たちは、格好ばかり付けずに、
自分には関係していないと言わずに復習すべきであろう。
なぜならば教師を志望した若き時の高貴な志をもう一度思い起こして、
校長を中心に、このことを踏まえて、本来の学校建設をすべきであろう。
今問題がないから良いのでは、駄目である、教師の移動は常であるからだ。
また先生がオ―ルマイティーではない。まして日替わりの状況には、経験不足がいっぱいであり、
悩み苦しむのは、他の人間と同じであるはずであるからだ。
体罰をしていた教師は、体育の教師らしいが、18年間も居座っていたことから、
その先生の功績に校長はじめ市教育委員会は、価値的にこちらを取り、本来の
「子どもの幸福のため」である教育を忘れてしまい、県教育委員会に報告もしなかった
のかもしれない。
その方が、成果が学校を飾り校長等も鼻が高かったことからの虚栄心で何も言えなかった
のであろう。
だれでもあることだが、使命の帯びた学校では未来のこどものためにあるがゆえに、
あってはならないこと。
教育のきょの字も忘れた屈辱な姿にも関わらず、本人たちは、全くこのことに気付いていない
様子の悲劇的な姿がテレビの画像に映されていた。
こうした校長・教育委員会の下では、起こること必然であるとも思うような実態があった。
事件を起こした学校長・教育委員会の話には、社会感と遊離した違和感がそこにはあった。
このことを知らずに話す姿に、むしろ滑稽さを感じた。
問題を起こす学校は、第一に校長の「長の一念」がどこにあるかであろう。
学校のためか、先生達のものか、自らのためか、に始終している校長のところには、
こうしたことが必ずや起こるのである。
「自分以外、何かの塊(かたまり)としか見えていない人である」
学校で物事を決めようとした時、第一義に子どもがどうだろうかと、子どもの顔が
浮かばない人は、すべてこの類の校長であろう。
それは過去の事例がすべてを物語っていると判断している。
「子ども一人ひとりに焦点を込めこの子が未来幸せに過ごせる姿になるには何が必要か」
を、懸命に汗を流し、常時見守り対応をしている学校であれば、起こり得ないことである。
このことが学校のありようのキーワードである。
その上に立ち学問であり・スポーツであるはずだ。
本来の育みのありようを一脱すると、結果はこのようになるのである。
そこには、普遍性もなければ、本来の学校としての子どもへの平等性もない。
本末転倒の姿しかない。
初め学校経営という言葉を聞いたとき違和感が出たことをお思い出した。
何か企業的な感じがして、その意味の深さは計り知れないので言ってはいけない
かもしれないが感慨として思ったものである。
学校長が、企業の主であってはならない。
しかし結局おこした学校の関係者の言動は、会社の社長のような辞任責任は存在していない
のであるからなおさらである。
またそこで働く教師にとり教えることの幸福感がなければ働き続けることは難しくなる。
京セラの創立者稲盛和男氏は「働くことが、人間性を深め人格を高くして魂まで磨いてくれる」
と言っている。その状態が学校の先生になければ、校長等の働きは、このことに異なってい
る働きを為してはいないかを熟慮すべきであろう。
校内行為を統括している校長の姿勢のありようが、未来社会を担う人を育む
これ以上ない重大な責務がそこに存在しているからである。
こうした聖業であることをもう一度教師は、皆で共に考えて、精進すべきである。
縷々思うことは、唯あるがーー。
人権教育の上からも多く本センター事業での当市の校長との交流では、立派な高貴・高潔な人
々であると思っている。(y・k)