2013年3月21日中立的評価の大事さ!
人は、自分のことは自分が一番知っていると思いがちである。宇宙物理学者で有名な佐治晴夫氏は言う。
「さにあらず」良く考えれば、自分の普段の顔は鏡でしか見えない。鏡も左右反対にしか見せていない。本当の自分ではない。写真さえ点の集まりであり実体ではない。だから人は、自分の行動は、他人の顔色表情で判断しながら生活をしているのである。」という。また「相手こそ自分の鏡である」とは、ジャーナリストの堤未果氏も言う。
佐治氏も堤氏も似たことを言っている。
歴史は中立的な評価こそ必要である。
人権のある社会において、特出した人が特出した安寧さを実現できれば評価すべきことである。
ところがどうして原子力発電が許可させたのか。人の究極的な命を脅かす出た灰の処理のできないのに、いつかできるだろうと未来に託すことが正常な考えだろうか。こんな科学なんてあるのだろうか。
今まで自動車や汽車や飛行機を発明した人が、「取りあえず乗れますが、ここは最悪に危険な所がありますが、ここは後世の人に委ねますから、なんとか動きますので、道や野山を走り、空を飛んでくれますか」と言ったってだれがそんなものに乗りますか。
ようするに、原発を推進した人たちは、これをやってのけてきたのである。欺瞞を重ねていかにもそれができるかのようにしてきたのだ。
学問の中でも原子物理学を専攻する人が少ないことをよそに、権力と結託して、いわゆる「むら組織」を形成して、欺瞞を重ね人の所為にして、自分たちのやりたい放題で得をするように法やあらゆるシステムを創りだれ一人責任のなきように仕組んだのが今の法であるように思う。
あの太平洋戦争での負けが決まった最後の突撃をやった、未来ある青年を特攻隊で死なせたことと似てはいないか。未来に託すことが命にかかわることであってはならない。
増して放射能汚染は目に見えない。除染処理の方法を見ればわかる、科学の進んだ今、「放射能など何も知らない人でもやること」を、また「大昔の人がおそらくやったであろうこと」と同じで、水で洗い流すことをやっているから滑稽さを感じる。 その水溜りの処理も決まらない。それこれに13兆円もかかるというから、バカもいい加減にせんかと腹立ちが起こる。
テレビ放映で「やっても、やってもまた同じ値になってしまう」と業者の人がな嘆いている姿。「金になるからやるんではない結果が出ないことはやりたくない」と言っていた。それが人間である。
見ていて嘆かわしくなる。
同じに科学的な進展があれば、放射能排出は一切ないシステム。もしあっても瞬時に光を照らせば無害になるようなことをなぜ考えておかなかったのだろうか。
このように、本来科学が進んで原子力発電するとしたら、放射能を除去するのに一日でできなければ、一体科学者は何をやろうとしていたのか。漫々と全く原爆の二の舞を引き続きやっていたのに過ぎないのではないだろうか.。従事した政治家や科学者は、自分の家族の生活維持を目的とした人であり他人の不幸はどうでも良いという人達の集まりでしかないのである。人間は何のために生きていいるのかである。全く哲学のない人たちの集まりであったのである。
原爆をつくろうとしたときに、あのアンシュタインやオッペンハイマ― ・ルーズベルトはその時どういう働きをしたのか。ドイツでのあのヒットラーになぜ引き摺られて多くのドイツ人は、ユダヤ人を約600万人も殺したのか。その時の究極の判断をする人たちは、より後世の人びとを苦しませたらいけないことを知っていたのかどうかである。評価は、後世ですることが多く、責任として何をどう取ろうとするのかができないし、分からない。
中立的評価の大事さの基準は、「人間が安寧で幸せに如何に過ごせるか」であり、「危うさのあることで如何に貢献することができても人の生きる目的には合致しない」のである。こんなことが起こると知ったら、だれが原発賛成となろうか。
何にか、全ての人に関わることは、全国の庶民の声により判断を委ねることの方が中立的評価の正しさなのである。(y・k)