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勇なるかなーー(細井平洲の心)

 先日の20日、本センター・スタッフと東海市にある平洲記念館を視察した。
館長さんから講話をいただき、「細井平洲」の偉大さが更に増して分かった。
有名の平洲だが、殆どが、あまり詳しく分からないままの視察であった。
細井平洲のことで有名なのは、平洲が37歳の時、米沢藩「上杉治憲(後の鷹山)」14歳の賓師と
なったことである。鷹山が17歳で米沢藩主になり19歳の時お国入りして、平洲の教えを実行し人づくりを通して農業・産業を復興し窮乏の財政を一代で立て直したのである。

 若き鷹山が、いよいよお国入りして藩の改革をすることとなった時に平洲に、どんな心構えで臨んだら良いかを問うた時、平洲いわく「勇なるかな 勇なるかな 勇にあらずして何をもっておこなわんや」と言ったという。
平洲は、「藩主なるあなたに、大事なこと、お手本にした方がいいと思うことは全て教えました。
藩の人びととの暮らしを立ち直らせて、豊かにしていくためには、まず自らが身を正しく修めて、
絶えず努力して、自分の信じるところを貫いていかねばなりません。
こうしたことは、勇気あるものだけができるのです。
勇気ですよ、勇気ですよ、勇気なくして、どうして政治ができるでしょうか。いよいよその時がやってきたのです」と鷹山を鼓舞したと言われます。<先施の心=相手からの働きを待つのでなく自分から先に働きかけることで相手を動かすのです。>
<学思行相まって良となす=学んだことを良く考え実行することで、学んだことを生活に生かして
こそ、より良くなるのです。>  さらに鷹山は、後に「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」
と謳い平洲の教えの会得に報恩感謝をしたという。
平洲は、その後は、伊予西条藩主・紀州藩主・尾張藩主に儒学者として仕えるが、特に尾張藩学校の「明倫堂」(現:明和高校の前進)を竣工させ学長となる。尾張・美濃の各地で「廻村講話」を行い身分制度を度外視した藩民全ての人による振興こそ大事という考えで社会教育に力を注いだ。
そうして晩年は、米沢の上杉鷹山から招かれて歓待された。藩主の鷹山自ら、わざわざ国境まで師である
平洲を出迎えた史績があるという。米沢藩の復興を視た平洲の喜びは、いかばかりかと思う。
平洲の書いた「嚶鳴館遺稿」(おうめいかんいこう)=(24歳に江戸に出てこの名の塾を開き多くの人材を育てた)は、没33年後、弟子の西条藩士「上田雄二郎」が、6巻にまとめ刊行した。これを使って教育したのが吉田松陰・西郷隆盛であり、幕末に未来の日本の有り方に強く影響を及ぼしたという。細井平洲・佐久間象山・中江藤樹らの研修をセンターとして3年間やってきたが、皆人間性溢れる庶民第一の教えを貫き、「世界から見た日本の有り方」に思いをはせ、身分制度を廃止して近代日本の民主主義の平等思想の礎を築いてきたことを学ぶことができたと思っている。
 しかし江戸幕府初期のお抱えの権力者となった「林羅山」は、孔子の教えに反して、独説の「上下定分の理」を説き「被差別部落民制度」を含む「身分制度」の発想擁護者となり、今日まで日本の人権の恥部をつくったと言われる。
 「学者は、慢心環境の中で生きてはならない」もの、今世の原発学者も同様な気がする。(y・k)