「ホーム」へ戻る

ホーム心のビタミン

柔らかな真綿のような心で!(「社会を明るくする運動」始まる!)

 真綿は、やわらかで肌触りが良い。昔、田舎での幼少の頃をふと思い出した。
養蚕農家の実家で、この真綿を手にして、この真綿の山の中で寝むってみたいものだと思ったものだ。(「まわ太」は、本センターのキャラクターの「まゆちゃん一家」の父の名としている)
 居心地(いごこち)がよさそうなことは、何かと問われても表現ができないが、せめて言えることは、そのことだと思い浮かんだのだ。今ここに居ることが最高だと言える人は少ないであろう。
 いつの世であれ、今、振り返れば良かったと思う懐かしさの昔でさえ、その時は大変な苦労があったもの。それほど変わらない毎日のようだが、人それぞれの小さな積み重ねの歩みの中に大きく人生は、あるからだ。
 「生き様に無駄などないもの」との旨を語った人がいた。
 その人が言うには、「その時の自分は、人に迷惑をかけたが、このことを反省できたのも今の自分になる過程であり、その体験を何倍かにして償(つぐな)うことが自分の使命であると思う」と言っていた。人は、我慢が必要な時もある。また我慢できない時もある。この位の事で!と言ってもその人の心持は分からぬもの。ただ言えることは、その荒んだ命を覆いかぶせる真綿のような、たおやかな快さがあれば、こうしたことに成らなかったのでは、とも言う。
 その快さが今の会社に有った。自分を必要としてくれた皆に感謝して、会うたびに声をかけてくれた社主に、この人の為に恩を返そう、頑張ろうと思ったと言う。その高みの先に自らの新たな使命があることを今知りましたと言っていた。
 こうした自分にしてくれた今が嬉しく感謝していますと十数年前では、考えられない程に変わった人がそこにいた。いつも年賀で近況を知らせてくれ、嬉しく激励の返信もしてきたが合わずじまいであった。人は役立つその時が必ずあるものだ。
 人は、自分一人では、生き難いもの。今があるのは、縁した人との交歓によるもの。良い縁もあり、悪い縁もあるが、そうしたことを乗り越えて今がある。
 過ちを犯すのも人間、償(つぐない)い立ち上がるのも人間だからできる。受け入れる真綿のような社会こそ大事な社会なのである。だれでもこうした犯す命を持ち合わせているからだ。
 先日、可児市の役所で「犯罪や非行の起こらないようにする運動」である「社会を明るくする運動」
の開始式が可児地区推進委員会(所轄:人づくり課)の主催で行われた。良かったことは、冨田市長初め近隣の高校生も加わって行われたこと。昭和26年7月に過ちを犯した人の更生の国民運動として始まり、今月が強化月間である。(写真)  「黄色い羽根」がシンボルであるという。
 刑をおえて帰ってきた夫を快く迎える家族の標(しるし)に掲げた、あの「幸福の黄色いハンカチ」(山田洋次監督)の映画を思い浮かべた。また、いにしえの映画のソフィア・ローレンの「ひまわり」も思い浮かべ、あの有名な、テーマ曲、あの畑一面の黄色いヒマワリ花に感動したものだ。これらのすべては、あの真綿のようなやさしさが、心に染み入り、人生の思いのひと時をくれた。
 この運動の「子どもは、誰でもかけがえのない大切な宝物」・「縁あって一緒に暮らすんだから、うちにいる間は、あったかく過ごしてほしい」とのフレーズがいい。
「学校・職場・まして家族は、かけがえのない奇(く)にし縁(えにし)ある者の集まり、ここでどんなことが起ころうが、すべてを守り支え合わなくてどうしますか!」の声が聞こえてくるようです。(k・y)