2014年5月16日危なっかしい心
世の中永く生きる間には、多くの危なっかしい事に遭遇する。
また自らがその因をつくることさえあるものである。
危なっかしいとは、「○○受けすること」と辞書にはある。
受けるというのは、相手あってのことであるから、相手によく見てもらおう
と気を起こして行うことといえる。
よって、普遍的でなくいたって、主観的な行為なのである。
危なっかしい心とは、浮き足だった高揚感の中での得意的な判断をして
推し進める心である。
とかく人は、自分の立ち位置の中で自分を誇示したくなるもの、
誇示とは、まだ結果がでないのに受けをよくしたいことである。だましのテクニック
でもある。
真実の結果は、評価となり参考になるが、誇示は危なっかしいことの典型である。
危なっかしい空理空想の例を示しても、そこに至るまでのアプローチでの予兆
の対応をせずした怠惰の結果とすれば、例が真実になったとしても本末転倒なの
である。
孔子の言う「為すは、人なり」であり、「世で起こることは人の所為である」から、
例せることが起こることを想起できるならば金を使わずに、知恵で解決することの
ほうが、人を傷つけず、不安にさせず、人権的にも不条理にならずに済むのである。
その事の起らぬように誠意ある穏便な対応をすることが有事の前の大事さであり、
人の為す高貴の所作といえるのである。
英国の有名な政治家のグランドストーンは「善為しやすく悪為し難をつくるにあり」と
主張した言葉は知られている。他人を害さないこと、他人に悪をさせないことが正義の
柱である。
福沢諭吉の言う「世の中で一番美しいことは、全てのものに愛情を持つことである」と言
っている。
ともかくも危なっかしい心は、そこにいる人を不安におとしいれ生きる希望を失いかける
ことが、心配なのである。独りよがりな心だといえる。「危なっかしくなったら、間を置き再度
そのことを考えるほうが良い」が先人の知恵ではあるまいか。(y・k)