2016年7月30日殺人は最低の卑劣犯罪行為である!
先般の「障がい者殺傷事件」の極めて凄惨で残酷な事件に、容疑者の身勝手な言い分は人権的にも許せない卑劣の行為として非難します。犠牲になられた方々のご冥福を衷心よりお祈りします。また傷を負われた方々の一刻も早いご治癒をお祈りします。
人権的に気にさわることは、容疑者が如何にも正当化するかのように一連の流れの中に考えた、一分理由としての「障がい者不要論」である。
たまたま勤務した施設の障がい者への大変さの感慨が、過去に自らのめざした教師への歩みからの挫折のはけ口か知らぬが、いかにも正義らしく偉そうに正当性を持たせた上、自らを破壊することを短絡的に企て「不要論」を使ったように感じた。
正に悪魔の様相で、口から火を噴きながら狂う阿修羅のようである。
何もできないから、人が人でなくなるなどの考えはまさに邪推である。
何もできない、不自由なことがあることも人生の自然であり、明日自分もなるかもしれない交通社会であり高齢化社会なのです。また人は生まれた赤ちゃんの時も何もできなかったではないでしょうか。
その事実は多様であり、人は互いに辛い時苦し時は助け合って生きて行くことが、人道的・倫理的であり人権的なのです。
人生の価値は、生産する人のみでは、決まるものではありません。
個人としての人格が他者に与える影響は計り知れないことです。皆違う良い影響をぞれの家族・友人等が持つていることを知らねばなりません。一人の判断では到底考えられない深淵な縁の事実がそこにあるからです。その人が存在していることは、既にその周辺・社会・世界に影響を及ぼしているのです。
いかなる状況であろうとも本人と家族知人には絆としての長い思い出があり、互いの存在が成り立っているからです。「障がいを嫌う」のと「障がい者を嫌う」のとは別のことです。
この世の中厳密に言えば健常者などいないと言えるでしょう。何かしらの不具合を持ちながら生きています。人は、皆生まれながら何らかの病気等で悩みながらの生涯と思えば、障がい者と同じ自分での目線に成れるものです。
人権は、すべての人との平等の目線にあると言うことです。(y・k)